が目を覚ますと、既にリィの姿はなかった。
 格子窓から洩れる光から、朝を迎えたことが分かる。今日もいい天気のようだ。

「……ふぁあ……」

 枕元の腕時計を見れば、七時をすぎている。
 元の世界から持ってきたデジタル時計は、太陽光電池仕様だ。壊れない限り、半永久的に使うことができる。
 顔を洗い、服装を整えたは、よっこらしょと扉に手を掛けた。

「……さて、行きますか」

 そう呟いては適当に砦内をうろつき出した。通りすぎの騎士たちに片っぱしから尋ねると、彼らの居場所などすぐに分かる。
 ビルグナ砦の中でも一際高い塔の、大広間。
 国王を囲んだ、一見こそ穏やかな朝食の席である。

「おはよう、リィ、ウォル」

 少し迷ったが、国王とは反対側の、リィの隣に腰かけた。
 朝食は簡素というより粗食な、パンと冷たいスープに牛乳だけだが、出来立てというだけでにはご馳走に見える。とても飽食世界の子供のセリフではない。この半月でかなり感覚が変わってしまった。

「おはよ、
「もう少し遅くてもいいのだぞ。眠れたか?」
「久しぶりの屋根つきベッドだから、眠りすぎたくらい。――おはようございます、ナシアスさん、ガレンスさん」

 笑顔で朝の挨拶をするに、ナシアスは笑顔で返し、ガレンスは目を見開きながら頷いた。
 この娘は、これほど朗らかだったろうか。
 目を白黒させるガレンスに、その気持ちが理解できたウォルとリィは、顔を見合わせて小さく吹き出した。
 普段は人懐こいなのだが、敵意には敵意でかえすため、昨日はつんけんしていた。しかしどうも、一晩寝たらすっきり忘れたらしい。

、頼まれたものは部屋に運ばせておくよ。それと医務室は東側の一階にある」
「ありがとうございます!」

 ナシアスの言葉に、は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 しかし昨夜の会話を知らないリィは、不思議そうに首をかしげてみせる。

、怪我でもしたの?」
「ううん。ちょっとこっちの医術を勉強しようと思って」
「そう言えば、は医者の卵だったな」

 素直に感心してみせたウォルの隣で、リィは少し疑問に思い、聞いてみた。

「でもさ、、こっちの文字読めたっけ?」
「なに?」

 言葉は一応通じているが、文化や常識はさっぱりだ。
 動植物は似たような形状だったが、名前も効能もまるで違っている。そうなれば言語が解読できるのは、かなり確率が低い。しかしそれは既に予測済みだ。
 大丈夫かと聞いてくるリィに、は真顔でこう言いさとす。

「リィ。人間の感情の中でも一番大切なのは好奇心だと、私はそう信じているの」
「……つまり、解らないんだね」

 何とも行き当たりばったりだ。
 ウォルやナシアスは娘の快活さに目を細めたが、唯一彼らの奇行に慣れていないガレンスは、またもその目を見開くこととなった。

「医者だと……!? お前のような小娘がか?」
「私、もう十七なんですが」




 静寂が流れた。




「……え?」
「……いま、なんといった?」

 ガレンスだけではない。
 ナシアスやウォル、リィまでもが目を剥いて凝視してくる様子に、は嫌な予感を感じながらも、言った。

「いや、だから、私はもう、十七歳なんですけど」



「……あの娘、正気ですか……?」
「……いや、嘘を言うような性格でないが……」
「……私はてっきり十五くらいかと……」
「……随分大人びた娘とは思っていたが……」
「……しかしあれで十七とは……」



 彼らの言葉を、決して忘れない。
 絶対後々まで根にもってやる。そうは心に決めた。












 太陽はもうすぐ真上に差しかかる。
 もう暫くもすれば、約束どおり少女と大男の腕試しが始まるのだ。
 兵たちの練習場も兼ねている広場にて、他愛ない話をしながら待っていたウォルとナシアスに、とことことリィが近づいていった。

「あのさ、知らない?」
「部屋にいないのか?」
「うん。そろそろ時間だから、呼んでおこうって思ったんだけど……」

 は腕試しをいつ始めるか、知らない。
 そして辺りを見回した三人の耳に、――衣を裂くような悲鳴が響いた。


「「「……」」」


 明らかに鍛錬のものではない。
 恐怖と苦痛に満ちた、おそろしく切羽詰まった男の声だ。

「……ナシアス、あの声は」
「……医務室の方角ですね」

 沈黙の帳が下りる。
 何の根拠もないが、十中八九が関係している気がした。
 そうして彼らが固まっている間にも、「ぎゃああ」だの「ひぐえっ」だの「たっ助け……!」だの、等間隔で男たちの叫びが聞こえてくる。

「へ、陛下」
「……大丈夫だろう」

 そう言いつつも、ウォルはナシアスから目を逸らす。リィも同じくだ。
 やがて四半刻もすると、三人の予想通り、医務室の方角からがふらふら歩いてくるのが見えた。
 何故か憔悴しきっているその姿を、三人は無言で迎えた。


「…………信じられないです……」


「な、何をだ?」
「こっちの医療方法全部! 病気を治すのに、血抜きが治療だって言うんだよ? 止血も適当だし包帯は消毒してないし、これで化膿しない方がおかしい! あれじゃ治るものも治りませんって!」
「「「……」」」

 檸檬色の双眸を吊り上げて怒るに、周囲はつい後ずさる。
 怖かったからだ。

「診断は脈と尿検査しかしないって言うし、薬は薬で、薬草以外適当にも程があるんですよ! 硫黄と猿の心臓なんかが何に効くってんですか!」
「うわ……」

 それはちょっと、とさすがにリィも難色を示す。
 しかしが見たのは、まだ良い方だ。
 騎士団の医務室ということで、大体が確実に効くものしか揃えていない。これが酷くなると、動物の血液や人の頭蓋骨も、平気で登場してしまう。
 この時代の医学には、魔術や信仰に基づいたものだ。医者といえば、まず修道士。他にもモグリの医者から町医者、腫れ物の治療をする浴場主から薬剤師まで多種多彩。
 しかし当然「医師免許」というものは存在せず、どれもが嘘くさい。
 今までにないほど怒りに燃えているに、本当におそるおそる、ウォルが口を挟む。

「……そ、それで、あの悲鳴は……」
「大丈夫」

 何が、と言いかけたリィは、視線に牽制されて口をつぐんだ。

「カイロ――脊髄調整療法の免許はもってるんで。骨がずれたり神経が圧迫されてる人がいたので、ちょっと治させてもらいました」

 医学部一年の序盤は、大学以下の復習をする。
 その期間の授業は、中等部・高等部の学生は授業に出る必要がないのだ。暇を持て余していたは、趣味で民間療法を学び、免許を取ってしまったのだ。ティラ・ボーンにはこんな生徒が多い。
 同じ飛び級医学部生である友人も、一体いつ勉強していたのか、鍼灸・指圧・東洋漢方の試験に合格している。本人はけっこう簡単だったぜ、と笑っていたが。

  「ほとんど打撲と骨折だから、毎日湿布を替えれば二週間ほどで治りますよ」

 穏やかなの声が、逆にそら怖ろしい。

「し、しかしな……」
「治療に痛みは付き物ですよ。痛みを感じずに治ったら、その後、警戒が薄くなるでしょ?」
「……」
「器具がないから、骨の歪みを戻したり化膿した傷を消毒しかできませんけど。治った後は前より丈夫になりますし」

 それはそうだろう、と二人は思った。
 悶絶するほどの痛みを受けて前より弱くなったら、詐欺である。

「本当は整体の方が得意なんだけど、あんまり機会がなくて」
「……な、何故だ?」
「一回受けると、誰も二度と受けてくれなくて。色々噂も出回ってるらしくて、聞いた傍からみんな逃げちゃうんです」
「「……」」

 彼らは知らない。
 冷静寡黙を常とするの黒髪の友人ですら、一度彼女の整体を受けてから、絶対に首を縦に振らないことを。
 拷問や訓練ならば耐えられる。痛みに慣れ、平静であることが目的だからだ。
 しかし健康のために、骨を歪ませ軋ませる激痛をどうして受けたいのか。確かに効果はある。しかし、限度というものがあるだろう。
 進んで自ら穴に嵌まるのは、馬鹿か変態だけだ。

「リィも、怪我したら手当てするからね」
「……あー、うん、えっと……」

 リィには珍しい、歯切れの悪い言葉だった。
 この娘の前では負傷するべきではない、とその場の全員がつくづく思い知らされた。












 勝負は一瞬だった。
 剣を構えたと思った瞬間身を翻したリィの一撃によって、ガレンスの剣は吹き飛んでいた。
 ナシアスを始めとする騎士団員たちが唖然と見守ってしまった中、当の本人は軽く小首をかしげたまま、茫然自失のガレンスを窺っていた。
 仰天したものの、彼はさすがに歴戦の勇士だった。すぐさま立ち直った。

「も、もう一番、お願いする!」
「何度やって同じだよ」

 少女が冷静に言った。

「そんなことはやってみなければわからん!」

 ガレンスも引かなかった。
 こんな少女に後れをとったとなっては、騎士の誇りも名誉もあったものではない。

「なるほど少しは遣えるようだ。その歳にしては奇妙極まりないことだが、今のは俺の油断だ。次は本気でやる!」
「本気でね。ぜひともそう願いたいな」

 リィは皮肉めいた微笑を洩らし、剣を構えなおした。
 対するガレンスも今度は真剣そのものの表情になって、剣を取り上げた。
 この有様をナシアスを始めとするラモナ騎士団員は呆気にとられていたが、最前列で眺めていたウォルとは苦笑するしかない。
 剣戟ではナシアスに引けをとるものの、その剛力はすさまじい。とくに肉弾戦においては十人がかりの襲撃も跳ねかえす、ラモナ騎士団の文字通り英雄だった。
 少女の手腕が遥かに勝ることを、二人が知っているだけだ。
 案の定の運びに、目の前の勝負を眺めていたは、ふとウォルと目が合った。

「……打ち合い三十内に銀貨五枚」
「ならば、五十に金貨一枚」

 にやりと笑い、視線を戻す。
 市井の悪童のようなウォルとに、リィが聞いていたならどうしたか。
 そうこうする間にも、広場の中心に立つガレンスは篭手を切られ、剣帯を切られ、外套までばっさり切り落とされてしまう。それでいて男には傷ひとつ付いていない。
 ひらりひらりと舞って捕まらないリィに、とうとうガレンスは足を止めてしまった。

「なんだ。もうおしまい?」
「い、いや。そんなことはない。だがその……逃げ回ってばかりでは勝負にならんぞ!」

「ウォル」
「……」

 差し出されたの手に、ウォルは無言で金貨を乗せた。
 陽光を反射してきらきら輝く金貨を服の隠しにしまったとは対照的に、すさまじく苦い顔である。

「……ナシアスと賭けるべきだったか……」
「王様、王様」

 国王が臣下にたかってどうする。
 そんな食い物にされかけたナシアスはと言えば、すぐ傍の会話に気づいてもいない。始まった力比べに、水色の瞳がこぼれ落ちそうなくらい見開かれていた。
 しかしその勝負も、程なくして決着がついた。

「ぼくの勝ちだね」

 前の二戦よりも時間はかかったものの、これまたリィは勝負を収めた。
 見事だった腕試しに、思わずはぱちぱちと拍手を送る。

「すごいねリィ! すかっとしたよ!」
「そう?」
「あれ程腕が立つと知っていれば、他にやりようもあったものを……」

 訳の分からないウォルの苦々しい顔と、の朗らかな顔。
 対極的な二人を、少女は不思議に思いながらも見つめてしまう。
 程なくして、リィはぴんっときた。

「なに、もしかして、二人で賭けてたわけ?」
「儲けさせていただきました」
「……俺は損をしたぞ」

 さらりとばらした二人に、周囲は目を剥いた。
 しかし少女は、その年頃特有の潔癖さで嫌がるかと思いきや、面白そうにふぅんと呟いただけだ。

「ちなみに賭け金は?」
「金貨一枚」
「勿論何か奢ってくれるんだよね、?」
「勿論、仰せのままに」

 その時は茶化してみせただが、最後までこの金貨を使わなかった。
 大切に保管していたのでなく、丸々六年放っていたのを、ふと思い出したのだが。元の世界に戻ったにとって唯一無二の宝となったことは、言うまでもない。






 しかし、の受難はこれからだった。
 その後、ガレンスと国王の勧めにより、リィとナシアスの試合が行われた。勝敗はリィが決したものの、生徒のロッド試合とは話にならない息を飲む剣戟に、は目を奪われていた。
 だから意地悪く笑ったリィに、気づくのが遅れたのだ。

「そうだ、もぼくとやろうよ」
「……私に、死ねと?」

 本気では後ずさった。
 とリィでは相手になるはずもない。それを分かって、面白がって、あえて言ったのだ。
 多少疲れたものの、今のリィでも手加減できる余裕はある。
 慌てて逃げ出そうとしたの肩を、満面の笑みを浮かべたウォルがはっしと掴んだ。先程の意趣返しのつもりだろう。

「やってみてはどうだ? よい鍛錬になるぞ?」
「無理無理無理! 絶対敵わないって!」
「そんなことないよ。の棒術、面白いんだから。一度ちゃんと試合ってみたかったんだよね」

 リィの言葉に、騎士たちもざわりと動揺する。
 もしやあの少女のような腕前が、もう一人存在しているのか。
 当世の勝利の女神が認める剣術とは、一体どんなものか。当然ナシアスやガレンスも身を乗り出して目を輝かせてくる。

「ほう、殿も剣術を嗜まれるのか」
「剣じゃなくて棒だけどね。普通の騎士になら負けないと思うよ」
「うむ。俺への襲撃者も退けたこともある、中々に見事な腕前だぞ」
「リィ!! ウォル!!」

 二人とも嘘は言っていない。本当でもないだけだ。
 本気で嫌がっているを、二人がかりでずるずると広場の中央まで引きずっていく。いつもの杖を持っているかも確認済みだ。
 近くにいる騎士から木刀を借りたリィが、にっこり笑った。

「大丈夫。剣じゃなくて木刀にするから」
「全然大丈夫じゃない!」

 往生際の悪い目がけて、リィは軽く打ち込んだ。
 突然の攻撃に、とっさに腰からロッドを引き出してそれを避けたに、周囲が大きくざわめく。

「あれは、仕込み杖ですか?」
「まぁ見てみろ。かなり勉強になるぞ」

 朗らかな声のウォルも、視線は二人の試合に向けられている。
 最初は少女たちの勝負に胡乱だった騎士たちも、段々打ち込みが早くなっていくリィと、それを必死に避けるに、釘付けになりだした。
 相手を攻めれば、隙ができる。隙ができれば、相手に攻め込まれやすい。剣戟というのはそういったものが積み重なって勝敗が決まるのだが、しかしの場合、自分から全く攻めようとしない。
 彼女を指導したものは、とにかく避け方と隙の突き方を教えたのだろう。


 ひたすら避け、逃げ、除け、相手の隙を攻め、そしてまた逃げる。


 実直を旨とする騎士たちには縁のない手法だが、やってみると中々難しい。
 の棒術がと言うより、逆にどう攻めるかを考えさせられる。ウォルはそういった意味での「勉強」と言ったのだ。

「ウォルのあほー!! リィくらい強い相手だと終わらないのにー!!」
「ほらほら、よそ見してると危ないよ?」

 鋭い額への打ち込みを、必死には避けた。
 動体視力は悪くないので、どうやら剣筋よりも相手の動きに反応しているようだ。
 しかしそれが災いとも言えた。


 結局、一方的ないじめに近かった勝負は、前回の二戦とは比べ物にならないほど穏やかな雰囲気で、延々四半時以上続かされたのだった。





 ヒロインちょっぴり受難編でした。
 現在の抗生物質と化学薬品に慣れた子供たちでも、頭蓋骨とか鼬の生血とか出されたら本気で引きます。
 ウォル、よく体壊さないもんです。

 Back  Top  Next

inserted by FC2 system