国王がロアへ到着してから十日後、国王軍はコーラルへ向けて進軍を開始した。
 数日は何事もなく過ぎたが、総勢三千の軍勢がロシェの街道を越え、パキラ山脈にも近づいたころ、斥候が慌てて駆け戻ってきた。
 パキラ山脈の入口にある領主の城に続々と軍勢が集まり、厳重に城の守りを固めているのだ。

「どうやらマレバへたどりつく前に、一戦交えなければならないようだな」

 国王は領主たちの二心を憤るでもなく、淡々と言った。
 その戦力はワイベッカーの城主とその戦力が千五百。近隣から集まってきた領主の手勢が合わせて四千近く。そして近衛兵団から派遣されてきた二つの連隊がおおよそ一千。合わせて四千近くというから、総勢六千以上だ。
 こちらの優に倍である。
 さらに堅固な城があることを考えると、早くも勝ちは絶望的かと思えた。
 一つだけ優位があるとすれば、国王軍は自らの理を信じており、意気軒昂たるものがあるということだ。
 最初こそ真面目に軍議をしていた面々だったが、その内容は徐々に突拍子もないところへとずれ始めてしまった。
 曰く、リィ一人で城内へ忍び込んで火を掛けようというものである。

「だめよ! そんなこと!」
「いくらなんだって無茶苦茶だ!」

 幾人かの口から悲鳴のような声が上がる。
 更には今夜のうちに火を掛けにいく、と宣言したリィに、頭がおかしいのではと呆れた目を向ける者、目を疑う者、様々である。その中でもよほど腹が立ったのか、頭から湯気を上げてタルボが少女を叱りつけた。

「よいか、娘。戦に勝つためには軍規というものが何より重要なのだ。各人がおのれの役割を心得、大将の指揮下でいっせいに動いてこそ勝利の女神を呼び込むことができるのだぞ! おまえのように大口叩いて規律を乱すような者は致命傷となる。よく覚えておけ!!」
「あげく軍規を重んじて共倒れになれというのか」

 がらりと声が変わった。
 突然の変貌ぶりに、将軍もタルボもあっけにとられた。

「おまえたちが自滅するのは勝手だが、おれはごめんだ。少しは頭を冷やして考えろ。おれ一人が欠けたところで何の支障がある? 仮に失敗したとしても、その時は腹をくくって総攻撃をかければいいだろうが」

 緑の瞳に火が燃えている。
 今の今まで多少風変わりではあっても愛らしい少女だったのが、突然何か違うものに化けたのだ。

「だがな。少しでも負担を軽くしてやるために、身を挺して敵方の城を攻略に行くと言っているんだぞ。礼を言われこそすれ、文句を言われる筋合いはない! ぎゃあぎゃあわめいてないで気持ちよく送り出したらどうなんだ」

 国王とを除く全員が唖然としていた。
 明らかに何を聞いたのか耳が受けつけず、目を白黒させながら少女が退出するのを見送るだけだった。








 その夜、はとても忙しかった。
 何せ明朝には合戦が始まるのだ。後方で治療するだけと言っても、その準備は山ほどある。兵士たちは不寝番を覗いて休んでいる中、ばたばたと陣を駆け回っていた。
 今思えば、虫の予感なのだろう。
 村で一番大きな家――国王の寝所に使われている建物の傍を通りかかった時、ふと素通りするはずだった足がなぜか、屋敷の裏庭へと向いた。
 届けるはずの包帯や薬を抱えたまま、薮蚊や虫がいそうな薄暗い森を進んでいく。
 そして、柑子色の双眸を見開いた。


「……何してんの、ウォル」


 今にも窓枠から飛び立ちそうな、元国王と出くわした。
 例えるなら悪戯が見つかった悪ガキのような、ばつの悪そうな顔をするウォルに、は大きなため息を隠しきれない。
 見れば剣も帯いているし、放浪中に使っていた鎧や篭手も付けている。
 間違いなくリィの後を追っていくつもりだったろう国王に、は怒るよりも頭痛を感じた。

「いや、うむ、これはな」
「……リィを手伝いに行くつもりだったとか?」
「その通りだ」

 胸張って開き直りやがった。
 この元国王に投げつける物はないかなぁ、と真剣に物色しはじめるを感じ取ったのか、叱られた大型犬のような容貌でしょぼんと見下ろしてくる。

「怒ったか?」
「……いや、怒るよ普通……」

 ドラ将軍とかドラ将軍とかドラ将軍とか。
 先日落とされたばかりの雷を思い出しながら、は眉間に寄ったしわを指で伸ばす。あぁ、くせになりそう。

「……ウォルさぁ、元とはいえ国王でしょ? 大将が不在でどうするの」
「明朝には戻るつもりだったのだが」
「そんな希望的観測、というか目標、何の役にも立ちません」

 叱る声にも精彩が欠けている。
 数刻後にはリィやイヴンも同じ思いになるとは露知らず、たった一人でこの問題児と直面したは座り込みそうになるのを必死で抑えた。
 そんな微妙な心境を察したのか、窓枠から静かに降り立った国王はに近づくとひっそり囁いた。

「ところでものは相談だが、見逃してくれぬか?」

 ほんの数分、目を背けるだけでいいのだが。
 真顔でお願いしてくるウォルに、とうとうはさじを投げた。いや、医者がさじを投げちゃいけないと解ってはいるが、この場合はもうどうしようもない。
 今にも地面に落としそうな手荷物を改めて抱えると、きっとウォルを睨みつけた。

「五分待って。すぐ戻るから」
「う、うむ?」
「いいね、虫に食われようが蛇に噛まれようが絶対待っててよ。もしいなかったらドラ将軍とシャーミアンを叩き起こすからね」

 の目はマジだ。
 彼女ならやりかねない、というかやる、と急いで頷いたウォルを置いたまま、は元来た道を急いで駆け戻っていった。








 ワイベッカー城はなかなか堅固な造りだった。
 全体的に土と石を盛り上げた上に建ち、本丸、二の丸の二つの城から成っている。
 城壁の上は刻み込んだ鋸壁になっており、壁の五箇所に搭が建っている。さらに敷地全体が川の中州に当たるわけだから、何か近づけば一目でわかるというわけだ。
 つまり、この城は守るに易く、攻めるに難い、理想的な陣地と言えた。そのせいか兵士たちの間にも、戦う前から勝ち戦の気分が広がっている。

「国王軍とはいえ総勢こちらの半分以下ではな。もう勝ちは決まったようなもんじゃ」
「おお。お気の毒だがの。王様はコーラルをもう一度見ることはできんだろうて」

 ふるまわれた酒を飲んで、いい機嫌でそんなことを話している。
 その野営の灯りを、リィは対岸に身を伏せて眺めていた。
 頭上は覆い茂った木立や茂みが隠してくれている。ドラ将軍が不可能と断言した難事だが、少女は正面から入っていって出てくることも可能だと判っている。

 それにしても、つくづく、おかしなことになったと思う。
 どんなめぐりあわせで、自分はあの男と出会い、命がけで味方をすることになったのだろう。
 ドラ将軍に言ったように、デルフィニアの国王が誰になろうと、この世界で何が起きようと、自分には関係のないことである。
 こうして首を突っ込み、手助けをすることも、実を言えばいいことなのか悪いことなのか判断しかねるのだが、少なくともあの男に対する好意だけは疑いようがない。
 この先どんなことになるにせよ、何とかあの男を父親に再会させてやりたいと、そう思う。

 そしてもう一人、も同じだった。
 おかしな人間だと思った。
 別の世界に突然落とされたというのに、強い動揺も恐怖もない。自分にはいつか相棒が迎えに来てくれる。だから何年でも待てるけれど、には何の保障もない。なのに迷いもせず、自分とあの男に付いてきた。
 飄々として捕らえ所がなく、奇妙な愛嬌があって、――ためらいなく自分の手を握る。
 あの男とも違う。
 初めて友達になりたいと、そう思った。

(……不思議なものだ)

 あれほど憎み嫌った人間に、いきなり二人も『特別』を見つけるなんて。
 ふっと自嘲したリィの耳は、背後からそっと近づいてくる人の気配が聞き取った。感づかれたかと腰の剣に手をかけたが、現れた人影を見て構えを解いた。
 イヴンである。
 低く伏せたまま近寄ってきて、リィと並んで腹這いになった。

「何してる?」
「なあに。こんなおいしい役目を嬢ちゃん一人にやらせることもあるまいと思ってさ。何かできることはあるかい」

 あの国王とは別の意味で、とぼけた男である。
 これも相当な難事のはずなのに、平然とそんなことを言う。それから不意に何かを思い出したらしく、小さく笑った。

「いやもう、さっきのドラ将軍にかました啖呵にはたまげた。ドラ将軍といやあ、先代の王様でさえ玉座から下りてきて話をしたってなくらいの大物だ。気の毒に、おっさん、顎が外れそうな顔してたぜ」

 その大物をおっさん呼ばわりするこの男も相当である。

「おれは本当のことを言ったまでだ」
「確かにな。ところでどうやってあの中に忍び込むつもりだい?」
「ここから泳いで向こう岸に上がる。後は塀をよじ登ればいい」
「だからどうやって?」

 少女は抱えていた荷物を解いてみせた。
 中からは数本の短剣や棍棒など、物騒なものがいろいろ現れたが、その中に大きな鍵爪のついた頑丈に編まれた長い細縄があった。

「こういうこともあるかと思って、鍛冶屋につくってもらっておいた」
「用意がいいねえ」

 一見して泥棒道具である。城壁の上に引っかけて縄をよじ登ろうというのだ。むろん、誰にでもできる技ではないが、この少女ならばわけもないことである。
 そこへ第三の声が割り込んだ。

「そういうものがあるなら、俺でも何とかなりそうだな」

 少女は仰天した。
 身を伏せていることも忘れて飛び上がるところだった。

「ウォル! 何してる!?」

 抑えた声ながら叱責の口調になったのは勿論である。
 国王は絢爛な戦装束を脱ぎ捨て、放浪時代のような自由戦士の服装だった。これも身を伏せながら進んできて、少女やイヴンと並んで腹這いになる。

「いや、おまえ一人に危険な仕事をまかせて高いびきというわけにはいかんのでな。手伝いに来た」

 少女は獣のように唸った。
 ついで抑えた低い声とはいえ、矢継ぎ早に国王に浴びせかけられた悪口雑言のあまりの物凄さには、山賊のイヴンでさえ顔をひきつらせたほどである。
 少なくとも十回は不敬罪で牢屋に放り込まれても文句は言えないだけの罵倒をつくした後、ふと思い出したように辺りを見回した。

「……おい。まさかは連れてきてないだろうな?」
「今頃は俺の不在をごまかしているさ」

 抜け出そうとしたところを見つかって叱られたことは、おくびにも出さない。

「その代わり、色々と預ってきたぞ」
「なに?」

 背に担いでいた荷袋を下ろすと、ウォルは中を見せた。
 火打石、油が入った皮袋、しっかり編まれた荒縄、適当な長さの布、どこから手に入れたのか城の見取り図まで出てくる出てくる。
 あの短時間で用意したにしては、相も変わらず驚異的な準備力である。

「こりゃあ周到な……」
「それとリィ、お前にだ」
「え――っ!」

 ウォルが懐から出したのは、手の平に収まる程度の、細い鉄筒。
 差し出されたそれに嫌というほど見覚えがあったリィは、翠の眼をぱちぱちと見開いた。

「これ、のだよね?」
「隠密には最適だろうから、一応持っていけとな。その釦を押すと一気に伸びる仕掛けらしいぞ」

 女子供でも容易く扱えそうな鉄のロッドを、リィは受け取った。
 無骨な見た目とは裏腹に、繊細な仕掛けと思ったよりも耐久性を秘めている。所々傷ついた、だがよく手入れされている、の武器。
 鉄筒をぎゅっと握りしめたリィは、それを大事そうに懐に仕舞った。

「それと、だな……」
「うん?」

 何故か視線を逸らしながら、言いよどむ国王。
 この決戦前の時にまだあるのか、と視線で尋ねてくるリィとイヴンに、国王はようやく意を決して言った。



「――『五体満足に帰らなかったら三倍返し』、だそうだ……」



 闇深い森の中、三人がしばらく固まったのは記すまでもないだろう。









 少女たち三人が暗闇にまぎれて敵城の本丸に突入しようという頃、自らの宿舎に引き上げたドラ将軍は深い憂鬱に取りつかれていた。
 他でもない。国王の言動が原因である。
 あらぬ濡れ衣を着せられ、国を追われ、半年も放浪生活を送っていたにもかかわらず、その人柄が以前と少しも変わらずにあることを心から安堵したのだが、どうもそれはぬか喜びのように思えてきた。
 明朝、合戦ということに異存はない。だが、もしあの少女がしくじっていたら……。
 考え始めたらとても寝つかれなくなった。将軍はとうとう起き上がって衣服を整え、深夜にもかかわらず、国王の宿舎を訪ねたのである。
 見張りの兵士が片膝をつこうとするのをやめさせて、将軍は問いかけた。

「陛下はお休みか」
「はい。明朝、攻撃の始まる間際までは、誰も声を掛けてくれるなとのことでございます」
「そうか。しかし大事な用件だ。通してくれ」

 ドラ将軍ほどの人にこう言われてしまっては、見張りの兵士ごときが我を張れるものではない。道を譲った兵士をねぎらって室内に入り、無礼を百も承知で寝室の外から声をかけた。

「陛下。お休みのところ申しわけございません。ドラでございます」

 ところが返事がない。
 将軍はいぶかしんだ。武将たるもの、合戦を前にして人の声に気づかないほど深く寝入るとは考えられない。それがあの国王なら尚のことだ。
 そっと室内を覗いてみて、ドラ将軍は仰天した。
 寝台は空だった。
 夜具は冷えきって寝た跡もなく、おまけに家の裏庭に面した窓が開け放たれている。あの国王は誰も通さないように口止めして、密かに抜け出したのだ。
 将軍の口から壮絶な歯ぎしりが漏れたが、表向きには平然と国王の寝室を出たのである。

「御用はお済みですか?」
「いあ、よくお休みであったのでな。お前もそろそろ誰かと代わるとよい」

 優しく言って不寝番を遠ざけた。
 こんなことが兵士たちに知れたら一大事である。絶対に隠し遠さねばならなかった。
 ドラ将軍はその足で今度はナシアスの寝所を訪れた。というよりも、取次ぎも無視して、相手がまだ床を離れないうちに強引に押し通ったのだ。

「いったい、どうなさいました? 将軍」
「陛下がいらっしゃらん。寝台はもぬけの殻だ」

 呻くように言った将軍に、ナシアスもとっさに言葉が出ない。
 だがすぐに一つ頷くと、用意してあった長衣を羽織って格好を整え、将軍を促して寝所から飛び出した。明らかに何かを目指している様子に、将軍は訝しげに尋ねた。

「どこに行かれる?」
「バルドウの娘と陛下が不在となれば、残るは一人でしょう」

 そう言ったナシアスは、医務用の天幕に駆け込んだ。
 それに続いた将軍は、狭い天幕に充満しているかぎ慣れない匂いに眉を寄せ、そして広がる異様な光景にぎょっと目を見開いた。
 大小敷き詰められた鍋や薬瓶、そしてそれらに囲まれた黒髪の娘。

「……何をしておる」
「何って、明日の準備ですけど?」

 そう答えたの手元では、鍋一杯の絹糸がぐつぐつ煮えている。
 その隣では軍医や小姓たちが包帯を巻き取ったり、薬草をすり潰したりと、忙しそうだ。
 他にも酒を集めたり、手術器具を消毒したり、簡単な心肺蘇生を教えたり、明日の朝までにやることは沢山ある。
 だが、異世界で生理食塩水を作る羽目になるとは思いもしなかった。正確にできたとは思わないが、無いよりマシだ。おそらく多分。
 もちろん国王軍の医者たちには嫌な顔をされたが、そこはだ。言葉(と拳)でせつせつと説得して実施はするという言質を奪った。取るのではない、奪った。

(……あぁ、勉強しといて良かった……)

 今回ばかりは、あのふざけた友人に感謝である。
 もし無事に帰れたなら、ログ・セール大陸ケーキバイキング制覇計画に心ゆくまで付き合おうと誓った。こっちに来てお腹も太腿も二の腕も……胸も一回り減ったことだし、少しの体重増加もどんとこいだ。

「まだ起きていたんだね。体は大切にしないといけないよ?」
「夜型なもので」

 へらりとは答えた。
 一度熟睡してしまうと朝が来るまで絶対起きないが、二、三度の徹夜は平気になった。学生時代の徹夜法がこんなところで役立つとは、お釈迦様でも思うまい。
 だがドラ将軍が静かに人払いをしたのを見て、はちょっとだけ瞬きをした。
 その様子を見たナシアスも、単刀直入に切り出した。

「ところで、陛下の居場所を知っているかい?」

 やっぱり来た。
 ナシアスの水色の瞳とドラ将軍の暗色の瞳が、隠し事を暴こうとを見下ろしてくる。
 だが、問われた本人は、ごまかす気などさらさらなかった。日本人特有の曖昧な笑みを浮かべたまま、胸を張って堂々と言ったのだ。

「約束したので言えません」
「……つまり、知っているんだね」
「今頃は多分、せっせと仕事してると思うんですけど」

 ふっと逸らした視線の先には、敵方の城がある。
 傍目では泰然と構えているワイベッカー城だが、内情は今頃しっちゃかめっちゃかだ。
 あぁやはり、と頭を抱えそうになった将軍に、半ばそれを予測していたナシアスも大きなため息をついた。一人苦笑いを浮かべるに、つい咎めるような口調になったのも仕方ないだろう。

「どうしてお止めしなかったんだい」
「嫌ですねー。私じゃウォルを止められませんよ」

 いや、止められる。
 口だろうと拳だろうと、彼女に敵う人物はいない。

 歴戦の勇者であるドラ将軍とラモナ騎士団長は、まったく同じタイミングで同じ動作――つまり、の笑顔から目を逸らしてしまった。

「それにむしろ、心配なのは」
「え?」
「あの三人が、城に火をつけるだけで素直に戻ってくるかなぁ、なーんて……」

 あはは、とごまかすように笑ったが、もう遅い。
 不安が極限に達したらしく、ふらりと天幕を後にしていった将軍と、それを慌てて追っていったナシアスの後ろ姿を見送りながら、はまずいことを言ったと反省した。


 その言葉が大当たりと判るのは、戦に勝利した翌日のことである。




 ……最後をギャグで〆なきゃ落ち着かないんでしょうか。

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