デルフィニア国王軍には、誰もが恐れ近づこうとしない場所がある。
 昼間であろうと常に薄暗く、陰鬱な空気に保たれているその場所は、例え用事があろうと近づく者は皆無に等しい。噂と恐怖が飛び交い、視界に入れることさえ躊躇わせる何かがそこにはあった。

 山のように積み重ねられた医学書とカルテ(日本語)。
 各地から集められた薬草や毒草の数々。
 傍目は何をしてるかさっぱり分からない実験道具。
 形や大きさも様々な特注されたメスや注射などの医療器具。
 筋肉や血管が事細かに描かれた細密図や模型。
 そして壁際にどどんっと陳列された――人骨とホルマリン漬けの内臓。もちろん本物。しかも一体ではなく、老若男女と多数取り揃えてある。

 『死神の巣』と呼び名がつけられたその場所は、国王を守護する死神の娘――言うまでもなく、の部屋だ。
 いつの間にか国王軍のお化け屋敷または幽霊スポットとして認識されていても、本人はあくまで勉強のためと改善しようとしない。しかし、事情を知っている知人たちでさえ時々肝を冷やす のだ、善良な一般市民が次々気絶するのも仕方がないだろう(軍医たちがまったく恐れていないのも怖い)。
 そんなわけで普段まったく人の気配がしない、寄り付きもしない部屋が、今朝はありえないほどの人口密度を誇っていた。

 『 ウォルのお父さんに会ってきます。留守番よろしく。   』

 簡潔すぎる置き手紙を、ぐしゃりとウォルは握りつぶした。
 普段ごちゃごちゃと物が乱雑している部屋は、いつの間にか綺麗に片付けられている。確実に計画犯であろう犯行に、あーあ、とイヴンが肩をすくめ、ナシアスは苦笑し、ドラ将軍は何も言えずに頭を抱えた。
 フェルナン伯爵の救出作戦が練られて、早三日。
 俺も行く! 絶対に行く! リィととシャーミアン殿が行って、俺が赴いてはいかん道理がない! 宮殿の間取りも覚えているし、父上の顔合わせなら俺が最適ではないか! などと子供のように駄々を捏ねまくって折れようとしない国王に、とうとう説得がめんどくさくなってこっそり出かけていったらしい。
 イヴンやナシアス、ドラ将軍にさえ気づかせずに国王軍からばっくれた鮮やかな夜逃げは、もしかすれば北の塔への侵入も可能かもしれないと希望を抱かせる見事な手並みである。リィの能力か、シャーミアンの計画か、の才能か。多分全てだろう。
 置き去りにされた国王陛下がやけに静かになったことに気づき、イヴンは留守を任された者としての役目を忠実に実行することにした。

「それではお二方、どうぞ壁をご覧ください」

 どこに隠し持っていたのか荒縄を取り出したイヴンに、ナシアスとドラ将軍は懸命にも見ていない振りを貫くことにした。





「おーい坊主、もうすぐ城に着くぞー」

 背中から響いてきた声に、ぱちんっと目が覚めた。
 音を立てて進む馬車にゆらゆら揺られるうち、つい転寝してしまったらしい。さりげなく口元のよだれを確認しつつ、馬車の端に座りなおす。
 天気は憎たらしいほどに快晴。
 後ろを振り返ってみれば、目的地である真珠色に輝く都が迫ってくる。
 城壁の前で検問のために並んでいる人の列に、馬車もゆっくりとスピードを落とし始めた。その様子に慌てて黒髪を麦藁帽子に突っ込んで、薬草がたんまり入った籠を背負い直した。

「ほれ、下りた下りた」
「うん、おっちゃんありがと」

 検問で止まってしまった馬車の横に並び、ゆっくりと歩いて順番が来るのを待つ。
 段々と近づいてくる巨大な城門をほえーと見上げている、いかにもおのぼりさんらしい雰囲気に、見張りの衛兵が目を留めた。

「なんだ坊主、コーラルは初めてか?」
「うん、初めて。こんなに広いと迷子になりそうだね」

 きょろきょろと辺りを見回している様子に、壮年の衛兵は孫を見るような気分で微笑ましそうに眉を下げた。

「坊主、見ない顔だな。一人で来たのか?」
「師匠の代わりなんだ。今ぎっくり腰になってるからさ」
「そうかそうか、頑張れよ」

 力強く背中を叩かれ、何歩かたたらを踏んでしまう。そしてそのまま街内に進まされ――途端にぶつかってくる賑やかな喧騒に、琥珀色の瞳を見開いた。
 流石はデルフィニアの真珠と謡われる城下町。
 溢れんばかりの人の群れと、数えるだけでも一日では足りなさそうな店や露天。
 この目が回りそうな人の海の中では、下手に自分がうろつくよりも見つけてもらう方が早そうだ。
 そう考えて賑やかな露天や人の流れの邪魔にならないように脇に逸れる。そしていかにも待ち人をしていますという風情でぼんやりと町並みを眺めていたが、やがて徐々に目が据わっていき、とうとうぽつりと呟いた。

「……何故、誰も怪しまない」

 男装カムバック。
 悪目立ちする黄色がかった肌を土埃で汚し、麦藁帽子を深めにかぶる、そしてさらしを巻いただけで、特別なことはしていない。なのに誰もの性別を疑わない。理不尽だ。
 やはり骨格が悪いのか、いやいや民族が、と自分の遺伝子その他に責任転嫁しようとして、果てしなく非生産的であることに気づき、ため息をついた。
 眼前に広がる城下街は、華やかで活気に溢れており、眺めているだけで心が浮き立ってくる。
 この王都に来た目的がなければ喜々として買い食いや観光に出かけただろう。だがあいにくと現在のはほとんど文無しに近く、背中に背負った籠には、薬草の蓋の下には包帯に血止め薬、消毒用の強酒、解熱薬、三角巾から担架用の毛布まで、必要になるかもしれないものは片っ端から詰め込んである。いざとなればそこらに捨てればいいのだ、証拠隠滅の必要がない犯罪は楽でいい。

「あ、いたいた、!」

 顔を上げれば、薄汚れてはいても見覚えのある二人が近づいてくるのが見えた。
 の設定は『薬師の下働きの少年』だったため、別行動を取らざるを得なかった『農家の姉弟』の二人とようやく合流することができて、はほっと安堵の息を吐いた。

「遅かったね。何かあった?」
「シャーミアンがちょっかいかけられたんだ」
「え、ナンパ?」

 こぼれた言葉に、シャーミアンが頬を染め上げた。
 確かにリィがどこから見てもこまっしゃくれた農家の少年なのに対し、シャーミアンは立ち振る舞いに品の良さが隠せていない。
 全身から美人オーラが出てる気がする、などと文学性ゼロな表現で納得したに、もう二人とも、とシャーミアンが恥ずかしそうに俯いてしまう。だがそんな様子も芸達者であるリィには不合格点であるらしい。

「ほら、こういうのははったりが大事なんだよ。くらい図太くならないと」
「失礼な」
「十分図太いよ」

 思わずそう言い返したに、根が真面目である少女騎士は少しでも学び取ろうと口を開いた。

「あなたはどうやって城壁を越えたの?」
「え? 近くの荷馬車に乗っけてもらってそのまま……あ、そうだ! 城まで乗せてくれたら荷物運び手伝うって約束してたんだった」

 ごめんちょっと待ってて、と荷物を置いて小走りで駆けていく。
 そんなの背中を呆然と見送るしかなかったシャーミアンに、リィが重々しく頷いた。

「ね、図太いでしょ」
「……そう、かもしれないわ……」





 あまりに久々すぎて書き方を忘れてました。
 ちょっと試行錯誤してます。

 Back  Top  Next

inserted by FC2 system