夜は瞬く間にやって来た。
 昼の間はさまざまな市民たちが行きかうコーラル城も、日暮れと同時に嘘のように人影が絶えていく。
 電灯やネオンなどが存在しない巨大な城はひっそりと闇に包まれ、各所に篝火が焚かれている他は、窓や戸の隙間からうっすら蝋燭の灯りが見えるのみである。
 その中でも特に異様な雰囲気をかもし出しているのが、北の塔であった。
 建物自体は瀟洒な細い塔なのだが、一瞥しただけでそのまわりに漂っている、何とも言えない不気味な空気に誰でも気がつくことだろう。この塔に閉じ込められ、苦痛と辛酸を舐めさせられたあげく、命を奪われた虜囚たちの無念と怨恨がそのまま目に見えるような佇まいだ。
 背中から怖気が這い上がってくるような気がして、は慌てて頭を振った。ゾンビや宇宙人に襲われるものは得意だが、じわじわ恐怖が迫るホラーサスペンスは苦手なのだ。ご利益がある気がして、は目の前に蹲っているリィに両手を合わせておく。

(……何してるの?)
(気にしないで)

 の奇行に訝しげな顔はしたものの、リィは肩を竦めるだけにした。
 パキラ山の裾野に沿うような形で、四人は人気の無いところを選んで忍んでいた。
 野生の獣のように音も立てず進んでいくリィと、その後ろにぴったり付いていくシャーミアンとルカナン大隊長、そして彼らにフォローされて何とか付いていくヒビキ、という構図である。 誘拐された経験はあってもしたことはないは、彼らの後に付いていくのが精一杯だ。城壁を越えるときなども無駄なあがきをせず、最初からリィに背負われた。何の因果か気配を消すことだけは及第点だったのが空しい。
 何かの罠かと思うほどに人の気配がなく、時折ちらちらと開く覗き窓を避けるようにして、リィとシャーミアン、そしては北の塔の石壁にぴったりと体を張り付ける。
 そして暗闇に潜んでいるルカナン隊長に、小さく手を振った。
 近衛将校の鎧をまとっていかにも騒がしく駆け寄ってきたルカナン大隊長に、詰所の兵士たちも気づいたらしく、覗き窓が大きく開かれた。

「近衛兵団第一軍第二連隊所属大隊長ルカナンだ。至急、開門願う!」
「だ、だ、大隊長?」

 扉の向こう側で兵士たちが息を飲んだのが、の鈍い耳にも伝わってくる。
 兵士たちの狼狽を気にせず、ルカナン大隊長はなおも続けた。

「ワイベッカーで我が軍が国王軍に敗れたことは知っていよう。つい先ほどその国王軍から使者が参り、捕らえた近衛兵団の勇士とフェルナン伯爵との交換を申し出てきたのだ。騒がせて申し訳ないが、俺は第一軍隊長の命を受け、伯爵の身柄を引き取りに来たのだ。開けてくれ!」
「で、ですが……」
「規律に反することは百も承知だ。しかし、遅れれば国王軍は近衛兵団の勇士を一人ずつ見せしめに殺すと言っているのだぞ! 軍隊長もペールゼン侯爵閣下も承知のことだ! それとも貴様ら改革政府に逆らう気か!?」

 あれだけ嫌がってた割には演技派だなぁ、と内心は一人ごちる。
 塔の中がにわかに騒がしくなり、奥からがちゃがちゃと鍵の鳴る音が響いてくる。やがてひび割れた音とともに扉が開き、ルカナン大隊長が乗り込んでいく。
 扉が閉まる、と思った瞬間、すでにリィは駆け出していた。
 リィの当て身をくらって倒れこんだ兵士を乗り越え、が重い扉をようやく閉めた頃には、すべてが終了していた。気絶した兵士たちを後ろ手に縛りあげ、猿ぐつわをかませ、詰所に放り込ませるが、そこで問題が起きた。
 あるはずの鍵と、居るはずの兵士がいなかったのである。

「いかん。地下牢の兵士が巡回に出ているらしい」
「中に人がいるなら鍵は開いているんじゃないのか?」
「駄目だ。案内なしではとても目当ての房まではたどり着けん。第一、伯爵の房の鍵もないのだぞ」

 地下への入り口で立ち往生してしまった事実に、思わずシャーミアンとルカナン大隊長はリィの顔をすがるように見下ろした。
 一瞬ためらいを見せたリィだったが、その判断は素早かった。

「大隊長、シャーミアン。地下の入り口を見ていて。巡回が来たらその場で押さえるんだ」
「あなたは?」
「上の兵士たちを気絶させてくる」

 振り返らずに答えて、リィは階段をすべるように昇って行った。
 言外に大人しくしていろと釘を打たれたは、思わずシャーミアンの顔を見てしまう。はしばみ色の瞳が苦笑の色を浮かべたことから、シャーミアンも同じ気持ちなのだろう。は少し迷った挙句、二人と同じように地下牢の物陰に身を潜めた。
 それからどのくらいの時間が流れたのだろうか。
 リィが上にいた兵士たちを一人残らず当て落とし、音もなく戻って来たときも、まだ地下への鉄格子は閉ざされたままだった。
 夜間のことで時間の感覚も掴めない。明かりに使われている蝋燭はちっとも短くならない。邪魔にならないよう隠れているだけなのに、不安で胸が張り裂けそうになる。まるで何かに追われているような焦燥が広がっていく。

「……、っ!?」

 いつの間にか、目の前にリィがいた。
 こちらを静かに見つめてくる翠の瞳に、は肩の力が抜けるのが分かった。
 天井知らずだった脈拍が、徐々に下がっていく。ゆっくりと息を整え、目を閉じ、救急蘇生のガイドラインを順番に思い出していく。

(……私が考えるべきことは、助けることだ)

 もう大丈夫、とばかりに笑いかけると、花のような微笑みが返ってきた。
 じっと待ち続けて、やがて、リィがぴくりと動いてシャーミアンの腕を掴む。
 四人が息を詰めて待ち構えていると、鉄格子の向こうに小さな明かりが見えた。







 北の塔の地下牢は、日の当たらない場所特有のかび臭さが、つんと鼻をついた。
 人間が三人並んでやっと通れるような狭い通路と下りの階段が交互に現れる。通路の所々に壁をくりぬいた燭台があり、階段の出入り口には必ず明かりが設けられていた。
 土と石の壁は光をまったく通さない。昼夜をとおして、ここは塗りつぶしたような暗闇なのだ。
 そこに生きて帰った者は誰もいないという北の塔の地下部分は、曲がりくねった通路が伸びていた。幾重にも分かれ、時には行き止まり、時には交差して、その合間に独房が設けられているのだろう。まさに地下の迷宮である。

「いやな臭いがする」
「……どんな?」
「ひどくいやな、生き物が生きたまま腐っていくような、そんな臭いだ」

 まさにリィの言う通り、湿気と黴臭さに混じって、ときおり吐き気を催すような強烈な腐臭が鼻をついた。
 さらには明らかに狂っているとわかるかん高い嬌声が闇をつんざいて響くかと思うと、苦痛に耐えかねて呻く声が不気味に闇の底辺を這う。
 まるで塔そのものが人をじわじわいたぶり殺しているような不気味な気配に、は思わず身震いした。
 自分の存在はいわば伯爵を救出するための保険であり、本当に出番があるとは思ってもいない、むしろ無い方がずっといいと考えていたのに、先ほどから嫌な予感が止まらない。

「ここです」

 看守が立ち止まって指し示した扉に、シャーミアンとそれを追ってリィが駆けていく。
 周囲の声から目を背けるため、ルカナン大隊長に頼んで看守を抑えてもらい、ぽっきり折れた小指に当て木を添えていたの頬にふっと風が吹きぬけ――リィが房から駆け出てきた。

、お願い」

 それはつまり、が必要となる事態が起きていたということだ。
 手を引かれるままに暗闇の階段を降りていき、がらんと広い牢獄に手枷で戒められている人影、詳しくはその拷問の痕が明かりに照らされて、の眼の色が変わった。
 真皮まで壊死、炭化したV度熱傷(DB)。
 膝から下のほとんどが黒く焼けただれ、形をなさなくなっている。肌は溶け、焦げた肉が剥き出しになり、しかもろくな手当てもされずに放置されたせいで、電撃傷の区別もつかなくなるほど壊疽を起こしている。
 背負ってきた荷物から道具を取り出しながら、は伯爵の手錠を指差した。

「リィ、これ壊せる?」
「任せて」

 言うなり、手錠と壁をつないでいる鎖を叩き切った。次いで、伯爵の両手を固定している木枠の隙間に刃先を差し込み、あっさりと外してしまった。

「すみません、我慢してください」

 ずっしりと重かった水筒を取り出し、焼け爛れた両足の汚れを水洗いする。
 そして濃度の高い酒によるアルコール消毒と、清潔な布で患部を包み、仕込み杖を添え木代わりにして固定する。衛生的にも問題があるこの場所では、にできるのはここまでだ。

「いいよ、運ぼう」

 シャーミアンの手も借りて伯爵をかろうじて立たせ、リィの背中に倒れこませるようにして背負わせる。
 そうしてこれ以上は何の未練もないとばかりに、彼らは北の塔を後にした。







 夜の中を駆け、彼らがたどり着いたのは小さな寺院だった。
 案内された部屋はまるで納屋のような造りだったが、北の塔に比べれば雲泥の差だ。急ごしらえながら消毒した部屋で背中と両足の手当てをし、床に藁を敷いただけの粗末な寝床に伯爵を寝かせられた頃には、すでに半日が経過していた。
 湯と手ぬぐいを用意してリィが扉を叩くと、思ったよりもすんなり返事が返ってきた。

、入るよ?」
「どうぞ」

 納屋に入ると、ちょうどが伯爵の腕に針を刺しているところだった。
 背中と両足の施術は終わり、清潔なガーゼと包帯で包まれている。代わりに膿と血で汚れた包帯はぐしゃぐしゃと部屋の隅に放り出されたままだ。
 一人寝かされた伯爵の姿は、やはり枯れ落ちる寸前の風情をまとっていた。

「伯爵の様子は?」
「眠ってる」

 むしろ気絶といった方が近いかもしれない。
 呼吸や脈拍の低下、顔色、冷汗、そしてチアノーゼ。重症患者をこれ以上動かすなど絶対に駄目だ、とシャーミアンに固持したのは他ならぬだった。
 痛み止めとリンゲル液代わりの5%生理食塩水(まさか異世界で小さじが活躍するとは思わなかった)を点滴し、伯爵の脈を計っているの隣にリィは座り込んだ。

「シャーミアンは?」
「もうずいぶん前に出かけたよ。……、少し休んだら? 伯爵はぼくが見てるから」
「大丈夫、ありがとリィ」

 やんわりと拒絶したは、リィの心配そうな眼差しにも気づけずに、じっとひたすら伯爵を見続けた。
 ができたことは、ごく僅かだった。
 皮膚移植も足の切断手術も、今の伯爵の体力では耐えられない。何より、ただの医学生でしかなかったが一人でやるには荷が重すぎる。壊死した部分の切除と切開が精一杯だった。
 感染症などにかかっていないのが唯一の救いだが、希望にはならない。
 あとは伯爵の体力次第なのだ。

「……こんなことなら」
「うん」
「……無理やりペニシリンの開発費ぶんどっておくんだった……」

 思いつめるように唇を噛むに、ちょっと方向が違うんじゃないかなあと思いつつ、リィは手ぬぐいで伯爵の垢に汚れた額や頬を拭ってやった。
 伯爵の髪は白髪交じりの茶色で、牢獄生活で痩せおとろえたことを差し引いても、長身痩躯の体つきである。柔和そうな顔立ちも、堂々たる体躯をしたウォルとは似通ったところがない。どちらかと言えばナシアスの方が似ているくらいだ。
 顔を探られて、伯爵が薄く目を開いた。

「痛かった?」
「いや、顔を洗うのもあまりに久しぶりなのでな。驚いたのだ」

 伯爵はぼんやりと天井を見つめている。
 間近に迫った死を感じているのか、まだ自由となった実感が沸かないのか、ひどく頼りない、それでいて深い安堵が見られる顔だった。

「こうして、陽の当たる場所で死ぬことができる。十分すぎるくらいだわ」
「まだだめだよ、伯爵」

 声に力を込めて言ったリィに、伯爵が訝しげに視線を動かした。

「まだ死んじゃいけない。今、シャーミアンがウォルを呼びに行ってる」
「なんだと?」
「今日中に、遅くとも夜のうちにはウォルが来る。それまではどんなことをしても生きているんだ」
「こ……この愚か者が!」

 瀕死の床に就きながら、恐ろしいような声で叫んだ。
 興奮のあまり起き上がりかけた伯爵に、あわててはその肩を抑えて元通り寝かせてやった。

「なんということをしたのだ! お前もなぜ止めぬ! わたしのことにかかずらっておる場合だと思っておるのか! あの方は国王だ。王としての務めと責務を果たすことを第一に考えねばならんのだぞ!」

 一息に叫び、反動で浅く息を乱した伯爵を、リィはじっと見つめている。
 そんな伯爵の全身での恫喝にも、は困ったように眉を下げただけだった。

「ごめんなさい。私ウォルの味方なので、伯爵の言うことは聞けないんです」
「なに……?」

 呆気にとられたような伯爵の声に、ヒビキは畳みかけるように言う。

「私はここの人間じゃないから、王様問題とは無関係なんです。だからどうせなら、ウォルがしたいことを手伝ってあげたいじゃないですか」
「……」
「諦めて安静にしててください。あんまり動くと、ウォルが来るまで眠ってもらいますからね」

 言い聞かせながら伯爵の額に浮かんだ汗をふき取ってやり、そしてちらりとリィを見た。
 これ以上興奮するようなら手刀で一発よろしく、と目で訴えてくるに小さく頷いたリィだったが、伯爵はそれ以上動こうとはしないという直感も抱いていた。
 伯爵は、真剣そのものの表情で二人を見上げていた。

「……陛下の、味方と申したか」
「少なくともぼくらはそのつもりだ。王様じゃない、ただのウォルの味方」

 その声に伯爵はふと、首をめぐらして二人を見た。
 枕元にいるリィとの瞳の奥底までを見通したいとでもいうように、ひたと視線を合わせている。

「シャーミアンどのは、おまえたちを、神がつかわしてくれた娘だと言ったが……」
「きみの息子さんもそう言ってる。ただ、あいにく、ぼくの父親はバルドウって名前じゃない」
「私の両親もそんな不吉なものじゃないんですけどね」

 顔を見合わせて肩をすくめる少女たちに、伯爵の眼がやんわりと細められた。
 それから二人はロアの黒主を連れ帰ってきた日のことやその時のドラ将軍たちの様子、ナシアスやガレンスなど国王軍の勇士のこれまでの様子を身振り手振りで語り、先日のワイベッカーでの勝利を語り、その時のイヴンの活躍までことこまかに話した。
 そのたびに伯爵は笑いを洩らし、くつくつと喉を奮わせていた。

「昨夜は気づかなんだが、おまえの瞳はなつかしい色をしているな」
「懐かしい?」
「ああ。故郷の、五月の森を思い出させる。――スーシャではな。五月の森を宝石のような緑と称えるのだ。長い冬が終わり、草木は押さえつけられていた鬱憤を晴らすかのように芽吹いて、大地と梢を鮮やかな緑に染めていく。他のどんなものより美しく、懐かしい色だ」

 そこで、やんわりと横のへと視線を動かした。

「おぬしの瞳にも、見覚えがある」
「え?」
「夏が近づくころになると、スーシャの草原は小さな花をいっぱいに咲かせる。小さな鈴のような黄色の花だ。そうしてあちらこちら黄金に染まったそこへ、幼いあの方をよくお連れしたものだ」

 伯爵は眼を細めるようにして、ゆっくりと息を吐いた。

「あれが――妻が、好きだった花だ」

 そう言って、痩せ衰えた手をリィに伸ばした。
 全身の力が抜けたような、一回り小さくなったような姿に、思わずは背中を奮わせた。

「救ってもらった礼もまだであったな」
「まだ早いよ。だめだ。伯爵」
「なに。心配するな。陛下のお顔を見るまでは、死にはせん」

 伯爵はそう言って眼を閉じた。







 国王が駆けつけて来たのは、その日も暮れようとする頃だった。
 親子二人にしようと席を立ちかけて、けれどそれを伯爵本人に遮られて、それから長い、長い懺悔を聞いた。
 あまりにもささやかで切ない、父親としての幸せを願ったために起きた罪ならぬ懺悔を、本当に聞かせたいただ一人の代わりに聞いて、伯爵が言うべきことはすべて言い残した人の、満足げな顔となるまで。
 最後はほとんど喘ぎながら、けれどその顔にはゆったりと嬉しげな微笑が浮かんでいた。

「ありがとう」

 ほとんど力のない、かすれるような声だった。
 後はもう自分たちの出る幕ではなかった。己の掟に殉じようとしている父と、その息子の、二人の問題だった。
 小屋を出る間際、リィはそっと背後を振り返った。
 思わずそれに続くように振り返ろうとして、リィはの手を思い切り引っ張った。そしてそのまま納屋の入り口で、手をつないだまま腰を下ろす。
 手のひらの体温を感じながら、はそっと目を閉じた。

(……役立たずだ、私)

 朝はまだ遠い。





 

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